【あの人62】T・I君 そういえば彼は案外、私の家とは近かったと記憶している。 彼の実家は登米町、現在の登米市だった。 その当時は、登米というところは宮城県内だということは分かっていたが、実際にはどこにあるかも分からずにいた。 後に社会人になり、仙台の会社で仕事をしていたときに、たまたま登米の鉄工所との付き合いがあり、何度か一緒に仕事をさせていただいた。そして、うちの一回は、その会社の地元の登米でも仕事をしたことがあった。 その時は、この辺に住んでいるのだろうなぁと、彼の元気な姿を想像していた。 小学5年の時に私は仙台の国立療養所西多賀病院というところに入院していた。病室がそのまま朝から夕方までは教室になり授業が行われるというベッドスクールだ。 私が入院してきた後に仲間に加わった彼は、背中のカリエスだったと記憶している。 上半身を固定させるために、入院当初は上半身にギブスを巻いていた。 小学5年生の彼には、かなり辛かったのではないかと思うが、そんな事はおくびにも出さずに、毎日明るく過していた。 自分は1ヶ月、足をギブスで固定したが、最初の一週間は耐えられない苦痛だった。 何が苦しいって、自由に動かせないのだから、そうとうストレスがたまるというものだ。 けれど、彼はギブスをしていても、何か文句を言ったということを聞いた覚えが無い。 確か秋には退院したと思うのだが、どのぐらいの入院期間だったのか覚えていない。 退院するときに彼のお父さんから、病室の子供たち全員に一冊のノートがプレゼントされた。 私のノートには「いつまでも元気で」と力強く書かれていたはずだ。 そして彼の家までの簡単な地図が書かれていた。 しばらくは大切に何も書かないで取ってあったが、中学の時に勇気を出して友達の住所録にした。 そして、その住所録はPCで住所管理をするまで、大事に使っていた。 その後の彼のことは分からない。もちろん今ではいい親父になっているはずであるが、地元に残ったのか、故郷を後にして別のところで居を構えたのは分からないままである。 |